千年祀り唄
―無垢編―


4 うたかた(前編)


時褪せて
富士の高根に咲く花の
桔梗のかほり
想い馳せなむ


重く垂れこめた雲の間から、時折稲妻が光って見えた。
日照り続きで荒れ果てた田畑。
枯渇した村。

命を繋ぐために命を捨てた。
赤ん坊や年寄りや体の弱い者を捨て、生き残った者達は戦に向かった。実りがないなら実りあるところから奪えばいいと……。

そうしてまた、何百もの命が奪われて行った。
そうして何処までも、暗い悲しみを広げて行った。

――雨さえ降ってくれれば……

「雨……」
男の頬を雨粒が打った。散切り状態の髪はほつれてその頬に纏わり、手も着物も血と土に塗れていた。

「だが、もう遅い……」
彼はたった今降り出した雨に打たれながら顔を天に向けて呟いた。
「すべては取り返すことができぬのだ」
彼は膝を突き、両手を差し出す。
「おれは民を……」

降りしきる雨は。咽ぶ土の匂い。男の手には小刀が握られていた。そこから流れ落ちる滴は赤い色をしていた。男はそれを抜くと血糊で曇ったその刃を自分自身に向けた。雷鳴と同時に稲妻が走り、一瞬だけその刃に鋭い光が甦った。

「何も恐れることはない。おれを止める者はもういない」
空には無数の泡沫が広がっていた。

雨粒に包まれて眠る赤子達……。
産まれる前の世界で出会った魂の送り火が揺らめく。

――おれは無垢になりたかった

八重に走る稲妻が大地に轟き、男の身体を切り裂いた。
「今ここに、我倒れても、泡沫の夢は尽きぬ……」
握り込んだ土の中に、封じられた雨粒。その体から流れ出た汚れを浄化し、ただ一本の細い流れが枯れた田畑へと続いて行った。そして、男は耳の奥に赤子達のさざめきを聞いた。

――むく?
――おいでよ、むく
――いっしょにあそぼう

うたかたに眠る子ども達……。
その手に握り込んだ無垢な魂を、彼はそっと愛しんだ。

――むく

「無垢……?」

――いこう
――いっしょにいこう

「無垢に……」

何処かで鳴る半鐘の音……。
遠くなる馬の蹄……。
「おれは……」
握った手の隙間から苦い涙が毀れて落ちた。


――若宮様

誰かが呼んだ。
「若様、こちらにおいででしたか?」
血相変えて駆けて来たのは、氷室家の家老、久坂清衛門だ。
「どうした、清衛門。そのように息を切らして……」
振り返って問うたのはまだ前髪さえ落としていない氷室家の長男、数えでやっと14になったばかりの若宮だった。

遥か前方に広がる山々と、村の営みを見渡すことができるこの部屋で、若宮は一人静かに写経をしていた。心を鎮め、噴火で犠牲になった村人達への鎮魂と追悼の気持ちを込めて……。
そんな若宮の心情を思いやれば、むやみに声を掛けることなど憚られた。が、事態は重く、殿が不在となっている今、それを若宮に報告しない訳にはいかなかった。

「城で預かっておりました村人達が謀反を起こしました」
「謀反だと?」
僅かに眉を上げて家臣を見つめる若宮。
「連中は蔵に蓄えておりました食料を奪いました。それだけではございません。こともあろうに家畜小屋に侵入し、鳥や馬をも殺害し、その肉を食らっておるのです」
清衛門の肩が震えていた。
「わかった。すぐに行こう」
若宮が筆置いて立ち上がる。その影が一瞬揺れたように思えたのは、富士の火口からまた小さな噴煙が上がったからだ。

その裾野からはおよそ九里離れた村の端。ゆるやかな丘陵の上に建つこの小さな城からは前方に聳える富士の山がはっきりと見えた。そして、その裾野に広がる村々や美しい自然が一望できた。氷室家が治める村の全容が手に取るように見えるこの部屋が、若宮は気に入っていた。

富士山の頂からはまだ噴煙が立ち上り、ここまで硫黄のにおいが漂っていた。そして、その斜面を下って降りた溶岩の痕が生々しく村の奥まで続いている。そこにあった家や田畑すべてを焼き尽くして……。

ほんの数カ月前までは、田畑は緑に覆われていた。あの日以来、村の景色は一変し、変わり果てた姿になってしまった。

氷室家が支配するこの土地はもともと実り豊かな土地だった。城主は民をよく束ね、民も城主を敬い、人々は自然の恵みに感謝していた。そうして長い間に培われた信頼は揺らぎないものであると皆が信じていた。

しかし、十数年前、突然起きた噴火が人々に災いを齎した。以来、気候が変動し、雨が極端に減ってしまった。
しかも、湧き水は枯れ、河には魚がいなくなった。田に張る水も不足して、稲が育たなくなってしまったのだ。そして、流行り病の疫病が、人々の命を容赦なく奪って行った。

氷室家でも跡取りができずに思案に暮れた。産まれた赤子が皆、幼くして病に罹患り、亡くなってしまったからだ。そんな状況を見て、口さがない民は、この土地は呪われているなどと噂した。
しかし、14年前、ようやく氷室家にも跡取りとなるこの若宮が産まれ、ついに今年、元服を迎えようという年になった。

しかし、城中の中には、若宮という名は不吉だと顔を顰める者もいた。それは非業の死を遂げた者の魂を鎮めるために祭る祠の名前だからだ。しかし、あえてその名を付けることで災いから子どもを守ってくれると信じた。結果、若宮はすくすくと成長し、誰よりも素直でやさしい性格に育った。

「若様だ」
「若宮様、今日は何して遊ぶ?」
彼は村の子ども達とよく交流を持った。いくら剣が強くとも、慈悲の心無くしては人の心に非ずという父の教えの通り、彼は剣にも学にも通じ、民の身を思いやるやさしい心の少年に育って行った。しかし、家臣の者達の中には、そんな若宮の振る舞いに対して反感を抱く者もいた。彼がいつまでも民と混じり、女子どもと遊んでばかりいると言うのだ。そんなことでは民を支配する者としてけじめが立たぬと主張するのだ。
しかし、若宮自身は、そのような心配など無用だと言わんばかり尚一層の努力を重ね、今や誰よりも賢く、剣術に長けて礼儀を重んじる誠実な若者に成長していた。

「今日は団子を持って来た。一人に一つずつだよ。喧嘩しないでお食べ」
馬に結わえ付けていた荷物を解くと若宮が言った。
「若様、ありがとう」
「ありがとう」
そうして、彼は貧しい者達に食べ物を配った。

「佐吉、母の具合はどうだ?少しは起きられるようになったか?」
若宮はいつも村の者一人一人に気を配った。
「それが……昨日から何も食べないんだ。おらもおっとうも心配してるんだけんど……」
「そうか。それは心配だ。帰り際、覗いてみることにしよう」
空からは時折細かな灰が降って来ていた。その灰が村の作物を枯らした。そして、その灰が村から豊かさをも奪ったのだ。

「若様、鬼ごっこしよう!」
枯れた井戸の前で途方に暮れている大人達をよそに、幼い子どもらは屈託のない笑顔で若宮に言った。
「では、おれが鬼になろう。目を瞑って十数えたら始まりだ。それ、一つ、二つ、三つ……」
「わあ!」
子ども達は歓声を上げて四方へ向かって駆けて行く。灰色掛かった空。降り積もる砂。しかし、自らの手で視界を覆っている彼にはそれが見えない。

「四つ、五つ、六つ……」
聞こえているのは自らの鼓動。そして、遠い森の妖と子ども達の笑い声……。すべては灰色の中で燃えていた。夕焼けの赤さも、漆黒の烏も……。灰に打たれて不意に脇差がずしりと重さを増した。
「七つ、……八つ、九つ、十!」
目隠しの手を外す。灰色の空の下で子ども達が笑う。その笑顔が一瞬、塗り込められた石造のように硬直し、崩れ去って行く幻を見た。若宮は不安を覚え、思わず天を仰いだ。

そこに聳える富士の山。その裾野に広がる異界の森……。
「危惧であってくれれば……」
彼が立ち止まったままなので、子ども達が呼んだ。
「若様! どうしたの?」
「早く!」
「ああ。すぐに……。みんな、この鬼が捕まえてしまうぞ」
走り出した若宮を見て、また子ども達が歓声を上げた

子ども達はどんな時代にあっても、常に未来へ進もうとしていた。だが、飢饉を迎え、食べ物にも事欠くようになると、大人達は少しずつ変わって行った。それまで大切にしていたものを捨て、子ども達を飢えさせる訳には行かないと……。
その思いだけが強く、空回りした。
そしていつの間にか、生かすために命を選別することが日常化して行った……。


佐吉の家に寄った若宮はその母の悲しみを知った。彼女は亡くした赤子を思って泣いていた。産後の肥立ちがよくないのだと聞かされていたが、真実はより陰惨だったようだ。
「具合はどうですか?」
若宮の言葉に女は髪を振り乱して言った。
「おお、若様、もしもお慈悲の心がお有りなら、そのお腰の剣でこの私を切り殺してくださいまし……」
「何を……」
驚いてその顔を見つめる若宮に、お産で腰を痛め、立つことができなくなってしまった女は哀れっぽく懇願した。

「私がいては家の者達の足手まといになるだけなのです」
「そんなことはない。皆があなたを必要としている。特に佐吉や子ども達にとっては……」
隙間だらけの家は板張りで、薄い布団が一枚敷かれているだけだった。土間に置かれた農器具と奥に木箱が二つあるきりの簡素な造りだ。吹き込んだ灰がざらついて、女は時折咳き込んでいた。

「確かに、亡くした赤子のことは気の毒に思う。しかし、それはそなたのせいではあるまい。ましてやその赤子のせいでもない。誰の責任でもないのなら……」
「いいえ、違うのです。赤子は死んだのではなく、葬ったのです」
「何ですって?」
信じられないという顔で、女を見つめた。
「でも、仕方がないのです。そうしなければ、家族みんなが共倒れになってしまう」
「そんな……」
「おっとうは肺をやられて無理はできず、年老いた親とまだ幼い子どもが五人。田んぼは灰で埋もれ、畑も葉物は全滅。もう家には食べ物がないのです」

「わかっている。村の者達が飢えているということは……」
だが、それほどまでに追い詰められているとは思っていなかった。
少なくとも、少し足を伸ばせば、山菜や魚を取ることができた。腕があれば、鳥や動物を狩ることさえできたのだ。が、それには足腰が丈夫で遠くまで移動ができる男の協力がなければならない。近隣の山々といってもかなりの距離があったのと、溶岩の流出で植物は枯れ、河はせき止められて、道は塞がれてしまい、通り抜けができなくなってしまった場所も多かった。


若宮は栗馬を駆り、富士の裾野に広がる森へ向かった。
鬱蒼と茂った森の木々。奇怪に絡んだ枝。そのとば口には朽ちた巨木があって、その垂れさがった枝が古い井戸に掛かっていた。とうに使われなくなった井戸に水はなく、枯れ葉に埋もれた悲しみが渦を巻くように地上へと吹きあげていた。
投げ込まれた骨。
置き去りにされた魂が集う……。
吹き上げる風の音は、そんな哀れな者達のすすり泣く声に似ていた。


森はひどく入り組んでいた。
暗い緑に覆われて、食用にできる草や実はまるで見当たらなかった。
「やはり、ここには人が食するような野草はないか」
随分奥まで馬を走らせた割に、何も得る物はなく、若宮は落胆した。

「救いたいのに……」
頭上で鳥が羽ばたいていた。
「あれを射落とすか。しかし……」
若宮は躊躇った。
「人は何故、命有る者を狩らねば生きられぬのだろう」

細い獣道を見つけた。
彼は馬を降りると、その道を歩んだ。動物がいるということはその先に何かしらの食べ物があるかもしれないと考えたのだ。
「もし食べられる草か実があれば、少し分けてもらうとしよう」

そして、しばらく歩むと、不意に陽光が降り注ぐ場所に出た。そこには丈の短い草が密生し、蔦や桔梗も見つけた。
「有りがたい」
若宮は桔梗の根を掘り起こした。その根は鎮痛や鎮咳効果がある。持ち帰れば、村で役立てることができる。近くの岩陰からは僅かに水も湧き出ていた。
「これはいい場所を見つけた」

若宮は更に奥へ進んだ。すると、湿った土の間からきのこが顔を出している。
「このきのこには毒がない。食べられそうだ」
野草やきのこの見分け方は母に教わった。母方の祖父は薬草の知識のある人だった。その娘である彼の母も幼い頃からそんな父に付いて回り、植物の知識を仕込まれたのだという。そんな母から若宮もたくさんの野草の見分け方を教わった。周辺の山や畑、河べりにある植物など生活に役立つ知恵を多く学んだ。

しかし、その母も2年前に病気で他界した。
薬草の知識は、村の人々の役に立った。病気の子どもの熱さましや、血止めの薬草の見分け方や煎じ方を教えると、皆が喜んでくれた。が、それらの薬草も、今では手に入らなくなってしまった。

だいぶ陽が暮れかけて来た時だった。彼は光に透けて輝く赤い宝玉を見つけた。
「これは……」
緑の葉から覗く赤い実。それがそこかしこから顔を出し、甘酸っぱいにおいをさせて彼に呼び掛けて来る。
「野苺だ。しかもこんなに……」
若宮は喜んでそれを摘んだ。
「これはいい物が手に入った。村の子ども達に分けてやろう」

自分は一つも食さずに、若宮はそれを籠に詰めて持ちかえり、村の子ども達に一粒ずつ配った。そして、佐吉の母には生薬を届けた。
一度きりではとても無理だったが、彼は何度も馬を走らせ、遠い森と村とを往復した。
野苺はたくさんあった。皆が喜ぶ顔を見て、若宮は自分自身も幸福な気分で満たされていくのを感じた。


そして、最後に若宮はその少女の家を訪れた。
「千代……」
軋んだその戸を開けると少女は固い床の上でぼろ布一枚に包まっていた。
「若宮様……」
驚いたように顔を上げて見る娘の脇に膝を突くと、彼は微笑んだ。
「今日は野苺を摘んで来た。お食べ」
「若宮様、このような希少な物をいったい何処で……」
千代が驚く。今はたとえ小判を積んだとしてもこのような物を手に入れることは難しいだろう。

「いいからお食べ。子ども達に配って、ようやくおまえのところに来た。これが最後の一粒なんだ」
「若宮様の分は?」
「心配するな。これはおまえの分だ。早く元気になってまた、おまえの歌を聞かせておくれ」
「若宮様……」

千代は病気だった。産まれた時から体が弱く、床に着いていることが多かった。役に立たないと人から悪口を言われ、厄介者扱いされて来た彼女だったが、時折、庭で歌を口ずさんでいることがあった。澄んだ空のように美しい声。

それは初め、小鳥の声だろうかと若宮は思った。
何処か儚く、遠いまほろばを想わせるようなやさしい響き……。
煌めくような光の中で、少女は一人、歌いながら舞っていた。
それはまるで気高い天女のように……。
あるいは、自由に飛ぶ蝶のようにあでやかな衣装を纏っているかのようだと若宮は思った。

それ以来ずっと、彼は千代のことを見守って来たのだ。
しかし、日照りが酷くなり、村がいよいよ危機に瀕して来ると、彼女はだんだん歌を歌わなくなった。細い腕はよりか細くなって、口数さえもめっきり減った。顔色も良くなかった。病気が悪化しているのかもしれない。それとも……他に何か原因があるのか。若宮にとって、今はそれが何より気がかりだった。

「お食べ」
娘は遠慮がちにそれを口に含んだ。かさついた唇に苺から流れた液が滴り、微かに赤さを増した。
「甘い……」
はにかんだように微笑するその娘の表情が愛おしいと思った。

「今度はもっとたくさん採って来よう」
若宮が言った。
「でも……」
「おまえの喜ぶ顔がもっと見たい」
娘は少し俯いて目を伏せた。瞼に薄らと涙が浮かんでいる。
「どうした?」

「寂しいのです」
「何故?」
「だって若様は、じきに大人になってしまわれるのでしょう? そうしたら、村へはもう、来てくださらないかもしれないって……。千代のところへも……」
彼女は若宮より二つ年下だった。
「馬鹿なことを……。この村の民は、おれや父上にとって宝と同じだ。何よりも大切に思っている。その大切な者達に会いに来ない筈がなかろう」

「でも……元服されたら、戦に行くのでしょう?」
「戦?」
重なっていない板塀の片方が外れ、風に揺れてカタカタと鳴った。
「もうすぐ戦が始まると……そうなったら村の男達もみんなかり出されて畑仕事ができなくなると爺ちゃん達が……」
吹きこむ風に靡いて、少女の遅れ毛が波打つ。もしもその黒髪に赤い実のかんざしを差したなら、さぞ美しいだろうと若宮は想像した。

「戦にはならない」
その目を見つめてやさしく言った。
「もし、そうなったとしても、戦に出るのは城の者達で済ませる。おまえ達の手に槍や刀を持たせるようなことはしない。戦は人を殺すだけでなく、心を殺すものだ。そのようなことを、おれは望まない」
それは自分自身へ言い聞かせるための言葉でもあった。
このところ、確かにそんな噂を流す者もいた。

――もう蔵の食糧も尽きた。このままでは皆が共倒れとなってしまう
――ならば奪うしか……
――戦になるか

城の者達でさえ、声を潜めて囁き合った。

――戦に……

年老いた父もそれで心を痛めていた。
民を生かすために他国の民を殺すのか。
(それは決していい案ではない。他国の民の憎しみを買う。そうなれば、再び因果は巡り、この国は戦が絶えなくなるだろう)

「若様……」
押し黙っている彼の顔を覗き込んで千代が言った。
「他によい方法がないか考えているんだ。南の国では、荒れ地でも育つ穀物があるという。その種を分けてもらえないかと……」
若宮は常に民のことを想っていた。一つでも手の中の命が減ることのないように……。


そして、数日後。再び森へ入った若宮は、あの妖の女と遭遇した。

――ここから先へは行かさぬ

妖気を含んだ風に巻かれて、馬は正気を失って激しく嘶き、あらぬ方向へと駆け去ってしまった。
「栗馬!」
名前を呼んだがその姿はすぐに見えなくなった。

「道に迷ったか、人間」
立ち並ぶ木々の間から、細身の女がすっと出て来てそう訊いた。白い着物。長く垂らした黒髪。その顔は美しかったが、異様に鋭い目と細い指。よく見れば、そこから伸びた白い糸が木々の間を縦横無尽に巡っている。
「おれは若宮。氷室家の嫡男だ」
名乗りを上げた人間の頬に触れて来た女の白い指は、鈎爪のある蜘蛛の手だった。

「日照りと噴火のせいで民は貧困に喘いでいる。ほんの少し食料をもらいに来た」
「おまえか。禁断を犯して森の奥へ侵入し、私の野苺を盗ったのは……」
「おまえの……。それはすまなかった。だが、村は飢えているのだ。おれは子ども達を救いたい」
「無駄なことを……。どうせ助からぬ者達を救うために、おまえは禁断を犯すのか?」
「ほんの一瞬でもいい。何も知らない幼子達に、生まれて来てよかったと感じて欲しいのだ。甘い野苺を口に含めば、子ども達も笑顔になる。だから、おれは……」
その言葉を遮るように、突然、半鐘の鐘が鳴り出した。

「鐘だ。村に何かあったのか」
慌てて駆け出そうとする若宮を女が止める。
「出さぬ」
糸が絡んだ。
「放せ! おれは行かなければ……」
白い靄の向こうで、火の手が上がるのが見えた。
「火が……」
続いてゴーッという地響きと共に大地が揺れた。

「地鳴りが……」
しかし、それはただの地震ではなかった。炎に見えたそれは山を下る火砕流だった。噴火が始まったのだ。
「山から炎が噴き出している。これが神の怒りなのか……?」
火炎の竜……。年寄りから話は聞いていたが、実際にそれを見るのは初めてだった。
降り積もる砂。
赤い礫は二人の近くまで飛んで来て森を焼いた。
「村は? 城の者達は……」

――逃がさぬ

女はその全身を露わにし、大蜘蛛となって若宮の身体を掴んでいた。

――肉だ。若い肉……柔らかく、熱い血が滴る人間の……

その異形の腕を伸ばし、そっとその顔に触れる。

――喰ろうてやる。そうすれば、私はおまえの若さを吸収することができる

「妖の女よ、それがおまえの望みか?」
若宮が訊いた。

――そうだ

「ならば、この肉体、そなたにやろう。だが、約束してくれ。もうこれ以上、人を喰らわぬと……。そして、村の者達にほんの少しだけ食べ物を分けてやって欲しい」

――勝手なことを……

「わかっている。だが、おれはどうしても村の者達を救いたい。頼む。どうか村の者達を……」
喉元に突きつけた爪の先からは微かに血が滲んでいた。ほんの一突き。それですべては終わる。人間とは脆い命を持って生まれた。人は道具を使って獣を狩るが、その人間は弱さ故にまた別の命によって狩られるのだ。

龍脈は激しく波打っていた。火山弾が次々と飛んだ。そして、森は炎に包まれた。その灼熱の赤い炎の中に黒い蜘蛛の影が浮かぶ。

――ならば、猶予をやろう

蜘蛛が言った。

――だが、覚えておくがいい。人間は無垢なままではいられない。人間は所詮、意地汚くて浅ましい、醜い生き物なのだ。おまえはそれを目の当たりにするだろう。その時、貴様はどうする?

「おれは……」

――どうする?

すべては黒く焼け落ちていた。
家も畑も何もかも、荒れ狂う炎と大地に呑みこまれた。
そして、あの妖の森も……。